視察を欠席して考えた、労働と育児の両立
10月29日(火)〜30日(水)と私、山田が所属する市民福祉常任委員会の視察があった。
視察内容は
・東京都豊島区 ヒアリングフレイル・就活情報登録事業について
・八王子市 スマホアプリを活用した高齢者の健康づくりについて
そもそも宿泊付きの視察というものは、子育て中の親にとっては大きな壁だ。うちは子どもが3人。就学前が1人、小学校低学年が2人。たとえ「選挙の応援で遠出をする」となっても日帰りにする。党の集まりで宿泊を要するような遠方であるものにはいまだ参加したことがない。党は「子育てを優先して」と言ってくれている。
さて、東京までヒアリングフレイルや高齢者のための健康アプリをみにいく視察に、当初は参加する予定だったが結論から言うと、欠席した。
10月後半に入って我が家ではトラブル続出だった。次男が全治3週間の大怪我、1週間は歩くこともできなかった。その時点で不安な日々を送っていた。そして視察の2日前から長男咳ゴホゴホ、、我が家では先月長男がコロナ感染したこともあり、さらに不安。コロナだったらどうしよう。夫は頑張って日本語を勉強しているが、緊急で何かあった時などの対応はまだまだ不安、、とはいえ、夫はいろんなことに柔軟に対応する能力に長けているんだと日本に移住してから再確認するのだが、それでも万が一子どもに何かあった時に私もいたほうがいいに決まっている。友人である他の自治体議員に相談したら、「視察は育児を理由に欠席できるはずだ」とのアドバイス。翌日早速、視察担当の事務局職員に相談、問題ないとのことで欠席させてもらうことにした。日帰りだったら参加していたけれど、泊まりは流石に、何かあった時に駆けつけることができない不安があったのでほっとした。
視察に行くはずだった初日、長男の容態は悪化せずコロナでもなかった、夫もいる。私自身もなんの症状もなかったので、午後に事務処理などを片付けようと議会棟の控室へいき、夜7時頃まで作業した。途中近くの小学校に通う長女のピックアップに出て夫の元へ送り届け、晩御飯の材料の買い物をするなどもした。
視察に行くはずだった日の2日目、同じく昼過ぎに議会棟控室へいった。すると神妙な面持ちの議会事務局課長が控室に来られた。そして色々お話しになった。内容を要約するとこうだった。「公務を休んでいるのに登庁するのは常識外れ、市民の気持ちに寄り添っていない。」「視察に同行する職員も子育てしている場合もあるが、都合をつけている。キャンセルと言われ対応に追われた。そんな職員の気持ちに寄り添っていない。」とのことだった。
外国人家族がいる、とか、小さいこどもが3人いて、そのうち1人が怪我をしていて、もう1人が風邪をひいていて、一泊家を留守にするのがとても不安だという子育て中の親の気持ちには誰も寄り添ってくれることはない。育児と仕事を行ったり来たりで思うように仕事が捗らないことがよくあるので、隙アラバ控室に行って作業をすると言うのが私のルーティンだ。控室には休日であってもいつでも、子どもを見てくれる人がいたらくる。遠方に一泊したら何かあった時に駆けつけることができない、と言う話だ。そもそも市の職員だって小さい子どもがいるんだったら無理をさせて視察同行させるべきではない。日本社会の「常識」では明らかな優先順位があるらしい。議員1人が「ドタキャン」したことで対応に追われた職員の苦労は寄り添うべきもので、足を大怪我した子どもと体調が悪いこどもが気掛かりで、すぐに駆けつけられないような遠方で一泊することに躊躇しドタキャンするしかない母心は知らない、ということだ。そもそも子育て中の親に泊まりの視察はハードルが高すぎる。そして子どもを理由に視察に行かないなら仕事をするなよ、迷惑をかけたのだから外出は自粛しろということだ。もちろん私が子どもの体調を理由に視察を「ドタキャン」してその対応に追われてしまった職員の方には本当に申し訳ないことをしたと思っている。そして、課長もまた、職務を全うしているだけだということもわかっている。「山田さほは非常識極まりない新人議員で、議会事務局は手を焼いている」、日本社会の「共通認識」の中ではそういったところなのだろう。そういった構図の中で、課長は「管理職として職員を守るために行動をしている」ということになっている。そしてこの「構図」の中では、議員になってから、ほとんど休みも取らず働き詰めで、子どもを旅行に連れていくことすらできていない、私の事情にはもちろん、誰も全く興味はないことになっている。話したところで、「だからどうなんだ」ということであって、「そこはうまくやりくりできていない本人の責任で我々には関わりのないことだ、知ったことか」と思われるのがオチだろう。
少し話がそれるが、よく「3人も子どもがいてどうやって仕事しているのか」と聞かれる。確かに、自宅→保育園→事務所→控室→小学校→控室→保育園→会議→事務所→深夜帰宅、のようにアクロバットさながらの目が回るようなスケジュールをこなす日もある。日本社会の一般的に想像する「お父さんの役割」と「お母さんの役割」を単にひっくり返しただけではない。夫が家事育児の多くを担ってくれているのだが、日本語が不自由なのでPTA活動、懇談、参観など学校とのやりとり、習い事のスケジュール管理、各種手続き、何か問題があった時の対応全般は私だ。幸い直径500メートルの円の中に、自宅、役所、事務所、子どもの小学校、子どもの保育園、祖父母の家、習い事先など全てがあるので、助かっている。
新人議員なので、学ばなければならないことがたくさんあり、党にも入っているのでそちらの活動もある。議員活動、公務、党の活動、家事、育児、PTA活動、市民運動、勉強、、常に頭はパンク状態。事務処理が滞ることもあり、議会事務局の職員のみなさんには迷惑をかけることが多々あることを常日頃から申し訳なく思っている。育児も仕事も諦めたくない私の支えになってくださっていると感謝もしている。そして全力で、豊中市民に貢献したいと心から思っている。
いつもの海外出羽守になるが、カナダという海を越えた地球の反対側にある国の「社会の共通認識」の話をすると、勤務中に子どもが風邪だったり何かあって迎えに行く、もしくは家庭の事情(大小関わらず)で仕事を断るのは「あたりまえ」だ。だからこそ女性の社会進出が実現している。すなわち、男性が家事育児をしやすい世の中でもある。子どもや家族に無理をさせるのではなく、社会が柔軟になればそれで解決する。そんなに難しいことではないので実現している。ルールでガチガチに職員を縛ったら職員とその家族が我慢を強いられるので、ルールでガチガチにはしない。そもそも各家庭の「大変さ」は各家庭によって違うわけで、比べることはできない。本人が大変だといえば「その程度であればできるはずだ」ではなく「大変なんだな」と理解する。カナダのジェンダーギャップ指数は36位で118位の日本よりずっと上位だ。実際カナダ在住、子育てをしながら仕事をしている日本人女友達は口々にこう言う「日本社会で働くのはもう無理だ」と。
一方ジェンダーギャップ指数118位の日本。働く者は仕事が一番で、家庭は二の次で当然、だって「みんなそうしている」から。子どもがいても関係ない、なんとかして都合をつけろ、「みんなそうしている」、それが常識だ、できないお前は社会不適合者だ、迷惑ものだ。改めて労働者とその家族のケアに不寛容な社会だと思い知った。そして「子どもの世話をするということで休むのであれば、職場に来るなよ、非常識だ」というわけだが、これまた窮屈。状況をみて各個人が自分の責任で動けばいいのではないか、と私は考えるのだが、、。思い出すのが朝の保育園や幼稚園に子どもを送り届けた後に職場へ向かうママチャリのお母さんたちの姿だ。「仕事に遅れてはいけない」、と目を血走らせ高齢者にぶつかればどうなるのかというスピードでママチャリを爆走させる姿。家事、育児、仕事、、アクロバット的に生きるお母さんたち。「ルールを守れ、家事育児はちゃんとしろ、しかし家事育児は言い訳にするな、社会に適合しろ」という呪いの言葉に日々脅され突き動かされている。
ふと考えてしまわずにはいられないのだが、不誠実な税金の使い方はどうなんだ、国や府の言いなりになって、市民のためになっていないのではないか。「市民に寄り添っていない」のはどちらの方なのか、、
課長との会話に話を戻す。「子どもが小さいうちはこうやってドタキャンなどで迷惑がかかるので、子どもが大きくなるまでの間は視察はやめておくことにします」と話してみたのだが、「今は難しいかもしれない、ルールを変えてもらわなければならないかもしれない」とのことだった。特に就学前の子どもはいつなんどき感染症にかかるかわからない、しかも不思議なのだが「ここぞ」、という時に病気にかかるものだ。1年半という短い議員生活の中で、議会中に2回、子どもから病気をもらった(インフルエンザ、溶連菌)、旅行の時に家族5人中3人がノロウイルスに感染してキャンセル。去年の視察の時も風邪をもらった。そして今年の視察も子どもの3人中2人が調子が悪い、、要するに子どもが3人もいると年中何かある。職員のみなさんに迷惑がかかるのであらかじめ行かないことにできないものか。そうすればスムーズなのだがここでまた、「ルール」が壁になる。なんのためのルールなのか、、
世界では、性別、人種、障害の有無、貧富の差、社会的地位、大人子ども、それぞれのコンディションに阻害されることなく社会で活躍できるような構造へと、目まぐるしく変化をとげているが、日本はどうだ、「ルール」が鎖のように日本人を縛りつけて、身動きが取れなくなっている。どんどん世界から取り残されていく様を、カナダから日本に帰ってきて目の当たりにしている。
子どもに寄り添い奮闘する日々だからこそ、既存の制度や構造のおかしさに気づくことは驚くほどたくさんある。だからこそ、市政のありようを真剣に見つめ、困っている市民のための政治、行政を模索することができる。
私は今日も、力強くママチャリを漕ぐ。